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2013年5月26日 (日曜日)

【日治時期を知る (17)】台湾原住民と理蕃事業⑤ 映画『セデック・バレ 太陽旗』、霧社事件勃発。


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・泰雅タイヤル族(北蕃)
・賽德克セデック族=西賽德克セデック族(南投県)
  Photo德克搭雅タクダヤ蕃(霧社蕃)
     マヘボ社ボアルン社ホーゴー社ロードフ社タロワン社(タクダヤ)スーク社
     カッツク社・タカナン社・パーラン社・トーガン社・シーバウ社・ブカサン社
     ※ブカサン社は1930年(昭和5年)までにマヘボ社及びボアルン社に吸収合併された。
  Photo_2都達トゥダ蕃(タウツァ)
    ルクダヤ群
     ピヘラ社・ホメリシ社・クラパウ社・ルクダヤ社
    トーダ群
     ルーサウ社・トンバラ社・アイユー社・プンポン社
  Photo_3德魯閣タロコ蕃(トロック)
     サドゥ社・ブラヤウ社・ブシシカ社・ブシダヤ社・タロワン社(タロコ)
・太魯閣タロコ族=東賽德克セデック族(花蓮県)
    太魯閣タロコ蕃
    巴托蘭バトラン蕃(別名・木瓜、タクダヤに相当)
    桃賽タウサイ蕃(トゥダに相当)
    ※花蓮ではタロコが大多数を占める。 バトラン、タウサイも太魯閣族分類となっている。
・布農ブヌン族(南蕃)
※タクダヤ以外の各社の発音は仁愛郷公所HP記載のアルファベット表記を参考にしていますが、適当です^^;。

* * * * * *

台湾は戦後長らく中国国民党の独裁体制下にあったため、民族のアイデンティティを目覚めさせるような歴史研究は制限されていた。 それは霧社事件についても同様だ。 国民党はモーナルダオやタクダヤを抗日の英雄に仕立て上げ、反日思想を植えつける道具に利用したにすぎない。 1972年に日台の国交が途絶えるとその傾向はさらに強まった。 状況が改善するのは李登輝が登場した1980年代後半、民主化が始まって以降のことである。 故に記録に基づいた日本統治時代の台湾史研究は、現地よりもむしろ日本のほうが先行した。 台湾側でもこの20年余の間に生存者や関係者からの聞き取り調査・研究が進み、背景を含め事件の概要はほぼ明らかになっている。

【1930年(昭和5年)10月27日午前8時、運動会襲撃】
霧社公学校では毎年この時季に、小学校、公学校、各蕃童教育所合同の学芸会・運動会が2日がかりで催されていた。 霧社地区に住む日本人父兄はもちろん、埔里からも能高郡役所・警察の幹部らが観覧に訪れる年に一度の大イベントだ。 彼らはそれを狙った。

襲撃を画策したのは、普段から反抗的で住民や警察とたびたびトラブルを起こしていたホーゴー社のピホサッポとピホワリス。 両名とも日本人に対して個人的な恨みを強く持っていた。 主導したのはタクダヤ武闘派のリーダー的存在でもあるマヘボ社頭目のモーナルダオ。 この映画の主人公だ。 1911年(明治44年)にホーゴー社の頭目・タダオノーカンやパーラン社頭目・ワリスブニらと4ヶ月間内地を観光し、日本のチカラをじゅうぶん知っているにも関わらず頑なな態度をとり続ける、油断のならない人物として当局にマークされていた。 過去にも何度か反乱を企てたが、いずれも事前に察知され未遂に終わっている。 20日前、長男・タダオモーナが吉村巡査に暴行を加える事件を起こしており、厳罰が下されることを危惧していた。 有無を言わせぬ出役による苦痛、民族の文化を奪われ続けてきた悔しみ、原住民女性を使い捨てにする日本人警官への怒りもあった(…妹・テワスのように)。 頭目たちは耐えていたが、若い世代の憤りは限界に達していた。

ピホサッポらは24日夜の宴会の席でこの襲撃を思いつき、翌25日にモーナルダオに持ち掛けたとされている。 つまり起案から決行まで僅か3日という、電撃的凶行だった。 ただ若者たちの間では何年も前から日本人を皆殺しにしたいとの思いがあり、この日突然というわけでもなかった。 これまではなんとか頭目たちが抑えていたが、それがなぜ今回は蜂起に至ったのか、なぜモーナルダオは今回起ったのか…。 そこはいろいろ想像が許される部分だろう。 霧社は平穏な状態が続いていたため警官の数が減っていた。 油断があった。 不穏な動きを知らせる者がいなかった…など、条件は揃っていた。

蜂起したのはタクダヤ蕃(霧社蕃)11社のうち、モーナルダオのマヘボ社、タダオノーカンのホーゴー社ほか、ボアルン社(ワタンローバイ)、ロードフ社、タロワン社、スーク社の6社を中心とする壮丁およそ300名。 他の5社は起たなかったが、勧誘に応じて、或いは脅されて加わった者は僅かながらいたようである。
第一次霧社事件終結から間もない1931年(昭和6年)1月発行の台湾日日新報に、総督府が発表した事件の顛末記が掲載されている。 動機を含め事件を突発的事象に矮小化したい当局の思惑が感じられて全部を鵜呑みには出来ないが、時系列に沿った記述はひじょうに詳細で読み応えがある。
未明に蜂起した各社壮丁はそれぞれの駐在所を襲い、巡査やその家族を殺害後霧社に集結。 午前8時の国旗掲揚を合図にモーナルダオの次男・バッサオを中心とする青年組が運動会会場になだれ込み、日本人だけを狙って殺戮を開始した。 同時にモーナルダオ率いる老年組が霧社分室を襲撃し銃器・弾薬を略奪。 また一部は霧社に通じる大小道路を封鎖し、逃げてきた日本人をことごとく殺害した。 花岡二郎の妻・初子や小島源治の妻・マツノ、モーナルダオ一家と親しかった志柿公医夫妻ら多くの婦女子が避難した校長宿舎(…公学校向かい側にある)は原住民の狩猟場と化し、たちまち女性や子供の死体で埋まった。 初子、マツノ、志柿夫人は助かったものの、志柿公医は夫人と初子の眼前で撃ち殺された。 日本人の阿鼻叫喚の声は午前9時頃まで、霧社の町に響いた。

蜂起の導火線に火をつけた吉村巡査は、夜明け前、タダオモーナによって真っ先に殺された。
マヘボ駐在所の杉浦巡査もモーナルダオとバッサオに斬首殺害された。

ホーゴー社頭目・タダオノーカンと親交が深かった川島巡査は、頭目の静止を無視したバッサオらマヘボ壮丁によって家族とともに惨殺された。

駐在宿舎を早めに出発した桜駐在所の増田巡査一家7名は公学校近くで襲われ、夫妻と子供3名(…11歳、6歳、3歳)が無慈悲に殺された。

霧社分室主任・佐塚愛祐は妻・ヤワイらを会場外に逃したあと殺され、首を刎ねられた。

トンバラ以東の3つの駐在所に生存者はほとんど無く、建物はすべて焼き払われた。

襲撃を受けた駐在所の数は霧社分室、立鷹・三角峰砲台を含め2日間で13ヶ所。 うち7ヶ所が焼失、銃器180挺、弾薬2万3000発が奪われた。

霧社管内には当時227名の日本人がいたが、その6割に相当する134名がこの一連の襲撃で殺害された。 うち半数が15歳以下の子供で、32名は5歳以下の幼児であった。 受難した警察官及びその家族は41名、一般日本人は93名。 ほか、巻き添えで死亡した漢人2名、負傷後死亡した者2名、避難中に病死した者1名が出ている。 警察資料に記録されている1930年(昭和5年)の蕃害(…原住民の犯罪)による死者数139名は、これに符合する。
なお春田純一が演じた能高郡警察課長・江川博通は幸運にも脱出に成功し、警察側の数少ない生き証人となって後年貴重な追想録を残している。

【ホーゴー社頭目・タダオノーカン】
タダオノーカンは花岡二郎(ダッキスナウイ)の妻・初子(オビンタダオ)の父親であり、花岡一郎(ダッキスノービン)の妻・花子(オビンナウイ)の伯父(…母・イワリノーカンの弟)にあたる。 蜂起蕃の中では最後まで反対の立場をとっていた頭目である。
バッサオ隊とモーナ隊は午前6時半頃ホーゴーで合流したとされているが、ホーゴーでは未だ蜂起の様子が無かった。 タダオノーカンが暴挙を阻止しようと、血気にはやる自社壮丁に軽挙妄動を慎むようギリギリまで諭してまわっていたからだ。 しかし、モーナルダオの『同族の痛みを察せず、日本人を庇うとは如何なることか!』との恫喝でついに制しきれなくなり、友人である川島巡査が殺害されて最早退く道が無いことを悟った。 このあとタダオノーカンは敢えて先陣を切って戦うことを選び、日本軍の反撃で最初に戦死する頭目となる。 それが蜂起を止められなかった彼なりのケジメの付け方だった…と、個人的には思いたい。

もしもこの映画がモーナルダオではなくタダオノーカンの視点で描かれていたなら、どうだったろう。 初めて霧社事件の物語に触れる日本人にとって、もう少し感情移入しやすかっただろうか。 或いは、抑圧された時代しか知らないバッサオやピホサッポら若者たちの憤りを理解出来る立場にあった二人が、苦悩の末に最後は別々の道を選ぼうとした姿を対比して描けばまた違った面白さが生まれたかもしれない。

【小島マツノ】
台湾を中心に中華圏で活躍する日本人女優・田中千絵が演じたタウツァ駐在所巡査部長・小島源治の妻・マツノは、前回書いたとおり霧社公学校襲撃現場から生還している。 故に小島源治が私怨に駆られて変貌していくストーリー設定は史実を知っている者からすれば、かなり無理があると言わざるを得ない。 また、第二部『虹の橋』のエンディングで第二次霧社事件の首謀者があたかも彼であるかのように語られるが、これもどうだろうか。 霧社事件の生き証人・江川博通が書いた追想録に、当時80歳を超えていたであろう小島翁の告白文が載っている。 それを読んだ限りでは、彼は上司の意向を伝えた『伝達役』にすぎなかった。 あの時代のことだから拒否出来ない状況にあったことは容易に想像がつく。 僕は翁の告白は信じていいと思う。 小島夫妻の描かれ方だけはどうにも納得しかねる部分だった。

事件当日、小島マツノは3人の幼児(…5歳、3歳、6ヵ月)と一緒に長男と次男が出場する運動会を見に行って襲撃に巻き込まれた。 幼児3人は小島家が子守を頼んでいたタウツァの少女2名によっていち早く場外に連れ出されたため無事だったが、次男は見失ってしまった。 マツノは長男とともに校長宿舎に逃げ込み、死体の山に身を隠して蕃人壮丁をやり過ごした。 母親たちが庇ったのだろうか、そのとき死体の下にはまだ6人の子供たちが生き残っていたという。 マツノは日没前に学校内を捜索して、さらに子供10人を発見。 警察の救出隊が到着する29日まで、宿舎の厠の中で17人の子供たちを励まし守りぬいた。
一方、3人の幼児を抱えて脱出したタウツァの少女たちは、2日後に霧社から30kmも離れたマレッパ駐在所で無事保護された。 万一タウツァが蜂起に加わればこの子たちも狙われる。 そう判断してさらに奥地へと逃げたようである。 命懸けで日本人の子供を守った彼女たちの義行は、凄惨極まる霧社事件の中にあって心暖まる話として伝わっている。

マツノは救出後、次男を捜すため再び霧社公学校に戻った。 首を刎ねられた小さな身体が、校長宿舎の窓の下にあったという。 長男・重雄氏は当時、もう爪を切ってあげられない、髪を切ってあげられないと泣いていた母の様子を綴っている。

* * * * * *

映画『セデック・バレ』には日本人の子供が惨殺される場面はほとんど出てこない。 犠牲者の半数が子供だったにも関わらず…。 台湾の方たちには申し訳ないが、僕は運動会襲撃のシーンを見ながらセデックを根絶やしにしたい気持ちに駆られた。 おそらくこの感情は当時の日本人にもあったものだと思う。 セデックは日本人が現れるまで、『ガヤ(Gaya)』と呼ばれる民族独自の掟・ルールに従って生きてきた。 出草(首狩り)もガヤに則って行なっていたという。 しかしあの運動会襲撃だけは、ガヤと呼んでいいような高尚なものでは断じてなかったと、僕は考えている。 好意的な見方をしても、日本人に奪われたガヤを取り戻すための奪還行為、止まりだ。 本質はセデックの青年たちが積年の恨みを爆発させた、日本人大量殺害テロでしかない。

【日治時期を知る】というカテゴリーは、3ヵ月ほど前に日・台ハーフの日本人女子大生が台湾で『セデック・バレ』を見た感想として、『半分でも日本人であることを恥ずかしく思った』、『日本人は本当にたくさんひどいことをした』、『隣国の反日感情は当たり前』など、日本人を嫌悪するツイートを連発していたのが気になり、自分の備忘録も兼ねて作った。 彼女は韓流にドップリはまっているのでどこの影響を受けたかは言わずもがなであるが、この映画を見て日本人の血が半分入っていることを恥ずかしく思ってしまうとは、魏徳聖(ウェイダーション)が気の毒だ。 ならば、なぜ彼女はもう半分の血が台湾人であることを恥じないのか。 台湾人も原住民も、日本人を散々殺しまくっているというのに。

たとえば、当時は原住民による犯罪を『蕃害』と呼んだ。 その中には出草(首狩り)も含まれている。 警察の記録によれば、統治開始翌年の1896年から1931年までに蕃害で死亡した警察官とその家族及び官吏の数は2500名以上、一般の日本人及び漢人の死亡者数は4400名以上、負傷者を含めれば被害者数は1万1000名を超えている。 これは記録に残されている数字のみで、実際はもっと多い。
『日本人のほうがたくさん殺した』…それはその通りだ。 が、少なければ許されるということでもあるまい。 やったのは互いに人殺しである。
『無実の人を殺した』…それもその通りだ。 が、出草で殺された日本人も無実である。 原住民側に意味があろうと日本人には関係がない。 それを許せと言うのならば自分たちの価値観の押し付けでしかなく、日本人が原住民に対して行なったことと何ら変わりがない。
戦闘行為にしてもそうだ。 待ち伏せや狙撃は善で、大砲や飛行機を使うのが悪とはならない。 1人しか殺していなければ只の人殺しで、1000人殺したから虐殺と呼ぶのもおかしな話だ。 やはりやっていることは互いに人殺しでしかない。

映画『セデック・バレ』で描かれているのは、人間が行なったたくさんの過ちと、それぞれの生きざまである。 正義ではない。

* * * * * *

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コメント

fwd8さん、コメントありがとうございます^^。

魏徳聖監督は日台の歴史をとてもよく学んでいる方で、実話を基にしたフィクションであることを強調するために敢えて大袈裟な脚色をしたようですね。 台湾人であればそのあたり理解出来るのでしょうが、この歴史を知らなかった免疫のない日本人にはちょっと…ショックだったかもしれません。 丸ごと事実として受け止めてしまった人もいたようです…。

台湾でもこの映画が公開された当時、ブームに便乗して愛国心を強調した政治的主張をする人たちが現れたようですが、ただ韓国と違って台湾では、国民党の独裁体制下にあっても日本統治時代の記憶が親から子へ、子から孫へと功罪合わせて比較的公平に伝えられました。 もしもこの映画を反日活動に利用する連中が現れたとしたら、おそらく台湾の人たちが黙っていないでしょう。
それから意外なことに、日本にもこの時代の台湾の記録はけっこう詳細に残っていて、南京大虐殺のように捏造するのは無理でしょうね。 『台湾総督府警察沿革誌』を編纂した鷲巣敦哉などは、上層部からもう少し手加減して書くように言われて、それを毅然として断っているくらいですから^^。

はじめまして。映画を見てこちらに来ました。
私もsasanojiさんと同じ気持ちです。単純に日本人なら
あの運動会襲撃の現場を見れば、原住民を殲滅しろと思わざるをえません。

原住民の領地、文化や伝統は
自分達の命より大切なものだったのでしょうが、
罪もない日本の女・子供を惨殺して正当化は出来ません。
ただの人殺しですから。

もちろんこの映画を作った現在の台湾を憎いとも思いませんし、
ひどい反日映画だとも思いません。

私の心配は他にあって、
この映画を某近隣国が反日に利用したり、
真実をねじ曲げる白人達(戦勝国)の
洋画などでおなじみの「日本とドイツは100%悪」という
情報操作の新たなネタになるような気もしています。


コメントありがとうございます。

歴史は事実に基づいて客観的に追求すべきだと思いますが、映画はいかに史実に沿っているとはいえ所詮は創造物、物語です。 感情移入してこそ楽しめるというものでしょう。 僕は日本人側に感情移入して見ました。 だからこそ、もしもあの時代、あの運動会襲撃現場に自分が居合わせたならば、きっと罪のない家族を殺された怨みを晴らしたい気持ちに駆られただろうという意味で、セデックを根絶やしにしたいと書いたのです。 なにも今そうしたいと言っているわけではありません。 セデック側に感情移入していれば、また違った思いに駆られたでしょう。

僕は『セデック・バレ』が憎しみの感情を煽動する映画ではないことは充分に理解していますし、そのことについてはこれまでにも度々触れてきました。 極めて客観的に、魏徳聖監督とは違う視点で霧社事件という歴史を勉強しています。 その上で、この映画を見て熱くなっている人たちに向けて『映画は映画』、『歴史は歴史』だということをわかってほしくて一連の記事を書いています。 そこを読み取っていただけなかったとすれば自分の不徳のいたすところ、表現力の未熟を恥じるばかりです。

この映画を見ました。 運動会シーンを見てせデック族を根絶やしにしたいと言っていますが、 その感情を煽動する為の映画ではないことを理解して欲しいです。
私はこの映画見て誰が悪いとも思わなかったです。 ただお互いの立場があっただけで歴史は悲しいとしか思いません。

文明を与えてやったのに返って我々を野蛮にさせるとはというセリフ通り日本側も理解できるし、
なぜ先祖代々守ってきた領地を他人が我が物のように酷い扱いをするのだという原住民の気持ちも充分に理解できます。

もっとも日本人は日本擁護、台湾人は台湾擁護と昔から変わらない性が未だにありますね。 立派な文書をかくあなた様でしたらもっと客観的に見て頂けたらと思います。

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