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2013年5月 3日 (金曜日)

【日治時期を知る (15)】台湾原住民と理蕃事業③ 映画『セデック・バレ 太陽旗』、霧社制圧まで。

先日、話題の台湾映画『賽德克・巴萊(セデック・バレ)』を観た。 1930年(昭和5年)10月、日本統治時代に起きた原住民・賽德克セデック族による最大規模の武装抗日暴動『霧社事件』を舞台とした歴史スペクタクルだ。 凄惨なシーンが続くため誰にでもオススメするというわけにはいかないが、台湾と日本の関わりに興味がある方ならば見ておいて損はない作品だと思う。 前後編合わせて4時間半にも及ぶ大作である。

このブログ中でもこれまでに何度か取り上げている。 最初は2011年5月。 2年待った。 僕は霧社事件のあらましをある程度調べてから見に行ったので、純粋に映画を楽しむというよりは、自分が学んだ歴史との違いや、台湾人がこの出来事をどう解釈しているのかを確かめたい気持ちのほうが強かった。
とにかく大作であることは間違いない。 魏徳聖(ウェイダーション)監督には喝采を送る。 そのうえで個人的な印象を率直に述べると、第一部『太陽旗』は説明が足りず混乱する部分が少なからずあった。 第二部『虹の橋』はカタルシスを求めるあまり、やや冗長に過ぎたように思う。 とくに第一部は重要ポイントとなるエピソードを詰め込んだわりにサラッと流されたような感があって、一応わかったつもりで見ていた僕も流れに乗りづらかった。 そのあたり映画のシーンを思い出しながら台湾総督府の理蕃政策と絡めて辿ってみる。

* * * * * *

霧社は台湾のほぼ真ん中、現在の南投県仁愛郷、3000m級の山々に囲まれた標高1100mほどの場所にある。 1930年(昭和5年)10月、事件はそこで起こった。


より大きな地図で 賽德克・巴萊(セデック・バレ) を表示

【映画冒頭】
映画は日本による統治が始まる前、のちに暴動を率いることになる若きモーナルダオの出草(首狩り)シーンから始まる。 モーナルダオの誕生は1880年頃とされているので、このときはまだ10代前半というところか。 敵対している原住民は仁愛郷南部に居住する布農ブヌン族の干卓萬カンタバン蕃らしい。 霧社蕃のテリトリーとは境界が接近しているのでこのような衝突はあったのかもしれないが、ここでカンタバンを出したのは後の重要エピソードのための伏線だろう。
シーンは1895年(明治28年)6月2日に基隆沖船上で行なわれた台湾授受式から、台湾民主国や武装土匪ら抗日軍の討伐へと続く。

【漢人商人の交易所】
漢人商人の交易所で再びモーナたちが他所の原住民らと諍いを起こす場面。 ここも少々事情がわかりづらかった。
ここでモーナが喧嘩をふっかけているのはカンタバンではない。 同じ霧社地区に暮らすセデック族、トンバラ社の連中だ。 セデックにはタクダヤ(Tkdaya)、トゥダ(Teuda)、タロコ(Truku)、大きく分けて3つのグループ(蕃)が存在する(…劇中ではタクダヤ、タウツァ、トロックと呼称している)。 モーナのマヘボ社(村落)が属するのはタクダヤ蕃(霧社蕃)で、トンバラ社はトゥダ蕃(タウツァ)に属している。 同族だが両者には対立があった。 この諍いは第二部で描かれるセデック同士による激しい攻防の伏線となっている。

・泰雅タイヤル族(北蕃)
・賽德克セデック族=西賽德克セデック族(南投県)
  Photo德克搭雅タクダヤ蕃(霧社蕃)
     マヘボ社・ボアルン社・ホーゴー社・ロードフ社・タロワン社(タクダヤ)・スーク社
     カッツク社・タカナン社・パーラン社・トーガン社・シーバウ社・ブカサン社
     ※ブカサン社は1930年(昭和5年)までにマヘボ社及びボアルン社に吸収合併された。
  Photo_2都達トゥダ蕃(タウツァ)
    ルクダヤ群
     ピヘラ社・ホメリシ社・クラパウ社・ルクダヤ社
    トーダ群
     ルーサウ社・トンバラ社・アイユー社・プンポン社
  Photo_3德魯閣タロコ蕃(トロック)
     サドゥ社・ブラヤウ社・ブシシカ社・ブシダヤ社・タロワン社(タロコ)
・太魯閣タロコ族=東賽德克セデック族(花蓮県)
    太魯閣タロコ蕃
    巴托蘭バトラン蕃(別名・木瓜、タクダヤに相当)
    桃賽タウサイ蕃(トゥダに相当)
    ※花蓮ではタロコが大多数を占める。 バトラン、タウサイも太魯閣族分類となっている。
・布農ブヌン族(南蕃)
※タクダヤ以外の各社の発音は仁愛郷公所HP記載のアルファベット表記を参考にしていますが、適当です^^;。

各グループそれぞれが半独立的に暮らしてきたため、習俗や言語に微妙な差異が生じている。 当時、日本人研究者たちは伝承される民族誕生神話や言語の共通性などを基に分類していったそうだが、僅かな距離であっても峠ひとつ谷ひとつ隔てただけで意思疎通が困難なほど言語が変化していることも珍しくなかったという。 東側の花蓮県には中央山脈を越えて移動した別のセデック群が居住している。

【深堀事件】
1897年(明治30年)1月、道路・鉄道敷設調査のため埔里鎮から霧社に入った深堀安一郎大尉率いる測量隊15名全員が同地の原住民に殺害されるという事件が発生する。 劇中、野営していた調査隊が原住民に襲撃されるシーンがあったが、おそらくこれのことだろう。 セデック側から見たストーリーなのでやや軽めに扱われているが、日本側にしてみれば霧社討つべしの意識を決定づけた、かなり重要なポイントである。 凄惨を極める霧社事件の萌芽はこのとき既に生じていたと言っていい。 日本側は報復として霧社地区を封鎖。 塩など生活必需品の交易を絶ち、隘勇(あいゆう)線を延ばしながら包囲を進めていった。
『隘勇線』は清朝統治時代に漢人が築いた原住民地区との境界線、防衛柵を踏襲したものである。 日本軍は鉄条網に電気を流して原住民の襲撃を防ぎつつ理蕃道(隘勇線)を切り拓き前進した。 現在台湾古道と呼ばれている山道の多くはそれら理蕃道・警備道の名残である。 一部は拡幅整備され自動車道路や林道として使われている。
ちなみに残された記録を信じるならば、深堀隊一行はタクダヤを抜け、トゥダ、タロコ辺りの奥地で襲われている。 つまり霧社事件を主導するタクダヤはこの一件には関わっていなかったと推測される。

【人止關の戦い・姐妹原事件】
1902年(明治35年)、いよいよ日本軍は霧社討伐に向けて本格的に進軍を開始するが、埔里からの進入路は険しく、人止關峽谷の戦いでは多数の死傷者を出し退却する。 このまま戦えば損害がバカにならない。 そこで考えたのが、『蕃人には蕃人を』だった。
1903年(明治36年)10月、カンタバン(ブヌン族)は経済封鎖で困窮していたセデックに『塩や鉄器、食料を分けてあげる』と交易を持ちかけ、姐妹原に呼び寄せる。 しかしこれが日本側の仕組んだ罠だった。 セデックは酒盛りをして酔ったところをカンタバンらブヌン族に襲われ、ここで100名近い男手を失うことになる。 結果セデックの勢力は急激に弱まり、1905年(明治38年)、まずはタクダヤの7社が帰順。 1907年(明治40年)、最後にモーナルダオのマヘボ社とボアルン社、タウツァとトロックの2蕃が武装解除し、深堀事件から10年、ついに霧社地区全域が日本の統治下となった。

姐妹原でのだまし討ちはセデックのターニングポイントとなる重要な事件なので、もちろん劇中でも描かれているが、やはり説明不足の感が否めない。 映画冒頭のカンタバンとの確執を記憶していないと、この場面さらに何が起こっているのかわからなくなる。
ここは攻めあぐねる日本軍、困窮するセデック、両者の間にあるブヌン、3者の思惑が入り乱れる場面だ。 史実によると事件当時、霧社と境界を接する辺りのブヌン族は既に日本側に帰順していたという。 カンタバンは日本側が出した美味しい条件と引き替えに協力をしたのだろう。 しかし画面上で説明するのは難しい。 そこで強引にカンタバンとの確執を冒頭で印象付けて話を単純化したのかもしれない。 …が、その所為で重要ポイントであるはずのこのエピソードが単なる恩讐によるだまし討ちにしか見えなくなってしまっている。

映画ではこのあと日本軍が一気に霧社を制圧したように描かれるが、実際は全蕃社を帰順させるまで4年を掛けている。 第一部『太陽旗』、モーナルダオの青年期パートは警官たちに取り押さえられた彼の怒りの咆哮シーンで終わる。

* * * * * *

【太魯閣戦役】
1906年(明治39年)、台湾総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平が退任し、代わって佐久間左馬太が第5代総督に就任する。 佐久間は1874年(明治7年)、日本軍と台湾原住民の初の直接戦闘『牡丹社事件』にも参戦していた武闘派である。
霧社制圧を完了した総督府は1910年(明治43年)、全原住民の武装解除及び帰順を目的とした『五年理蕃計画』を開始する。 工程は、最初の2年間で北蕃を掃討するとともに隘勇線延長を推進。 さらに南部を調査し軍用道路を敷設する。 3年目は計画の主目的でもある太魯閣タロコ族の討伐。 4年目は南・東部の原住民を帰順させ、東西横貫道路を建設。 5年目、隘勇線を恒久的な道路に整備するといった内容だ。

太魯閣との因縁は1896年(明治29年)、花蓮港守備隊の日本兵がタロコ族の女性を強姦した事件に端を発する。 これに怒った原住民20名が新城監視哨を襲撃し、日本人将校ら20名余を殺害(新城事件)。 日本側は翌1897年(明治30年)、基隆歩兵隊を基軸とする混成部隊を太魯閣討伐に差し向けるも逆に手痛い敗北を喫し、ならばと今度は阿美アミ族の壮丁多数を加えた1700名超の大部隊で攻めたが、500名以上の死傷者を出し再び敗走する。 結局日本軍は4度攻め込み4度退却させられるという屈辱を味わうことになり、強攻策から帰順を促す懐柔策へと方針転換を余儀なくされた。 タロコ族、英雄物語であれば痛快過ぎるほどの強さである。
1906年(明治39年)には日本人樟脳業者による太魯閣地区でのクスノキ伐採を巡って不満を爆発させた太魯閣蕃14社が武装蜂起し、業者や作業員、教師、花蓮港支庁長ら日本人36名を殺害する事件が発生(威利事件)。 これに激怒した佐久間左馬太は太魯閣討伐を五年理蕃計画の主目的に置き、『理蕃総督』とあだ名されるほど原住民討伐に執念を燃やした。

1914年(大正3年)6月、総督府はいよいよ太魯閣地区への総攻撃を開始する。 日本側の兵力は軍・警察合わせて9200名。 太魯閣蕃97社の人口は約9000名(1600戸)、壮丁数は3000名ほどだったが、事前に現地の地勢や集落の状況などをじゅうぶんに調査した日本軍はむやみな突入はせず、集落に向けて大砲・迫撃砲を無差別に撃ち込む遠距離戦で次々に落としていった。 佐久間は70歳の高齢ながら自ら戦場に赴き前線視察を行なったという。
太魯閣はよく戦ったが同年8月ついに降伏し、台湾史上最大規模の戦闘『太魯閣戦役』は終了した。 日本側の死者数は軍・警察合わせて89名(…うち13名は風土病)。 太魯閣側の死者数は、不明である。

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長年の懸案だった太魯閣制圧が成り、当初の目的をほぼ達した五年計画は同年9月に終了。 理蕃政策は武力重視から、教育や観光、授産、交易、医療といった撫育を主とする次の段階へと移行する。
翌1915年(大正4年)4月に総督を退任した佐久間左馬太はその僅か4ヶ月後に死亡しているが、死因についてはハッキリしない。 戦場視察中に落馬したときの怪我が原因とか、自宅の風呂場で転倒した、或いは戦場で狙撃され既に陣没していた…など、妙な噂も出ている。 まさに理蕃総督のあだ名のとおり、原住民を制圧するためだけに現れたような人物だった。

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