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2013年4月28日 (日曜日)

【日治時期を知る (14)】台湾原住民と理蕃事業②

日本は1895年(明治28年)4月の馬関条約(下関条約)締結時、清国から台湾には4つの解決しがたい問題があると聞かされていた。 跋扈する匪賊、蔓延するアヘン、絶えない風土病、そして統治の及ばない蕃人(原住民)の存在の4つである。 清は捨て台詞を吐くように言ったそうだ。 これらを抑えるのは無理だ、と。
同年6月、台湾総督府は実質的な植民統治を開始するが、この4問題を如何に解決するかが日本の統治能力を示すうえでの当面の目標となった。

まず最初に手を付けたのは風土病対策だった。 統治開始の翌年、ただちに日本から衛生顧問ウィリアム・バートンを呼び寄せ、全土の衛生環境調査と上下水道計画にあたらせた。 23年後、主要都市の水道システムが完成。 衛生環境の改善により住民の平均寿命は大幅に上昇し、台湾の人口増加率は当時世界最高となった。
アヘン対策は1897年(明治30年)に発布した吸引及び製造・売買を許可制とする法律『台湾阿片令』によって漸禁制度を確立。 長期的な根絶を図っている。
帰順の意を示さず抵抗を続ける匪徒に対しては罪の多少を問わず、海外から批判を浴びるほどの容赦の無い殲滅をもって徹底的に掃討していった。

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一方、原住民(蕃人)に対しての積極策は前回触れたとおり、匪徒討伐が一段落する1902年まではほとんど実施出来なかった。 敵対する原住民の討伐は行なっているが、基本的には教育機関の設置、部族のリーダーらを招待して慰撫するといった懐柔策(…1897年には日本観光も)が中心で、むしろこの時期総督府が積極的に励んでいたのは、原住民を知ることだった。
日本の統治以前、フランスの比較言語学者ラクペリー(Albert Terrien De Lacouperie)ら欧米人の著書でタイヤル族やブヌン族、パイワン族など一部族群の存在は既に知られていたものの、清治時代は平地に住む漢化した原住民を平埔番(熟番)、統治が及ばない山岳部に住む原住民を高山番(生番)と呼んで簡便に区別していたに過ぎず、統治を進めていくにはまったく情報が足りていなかった。 そこでまずは人類学者や言語学者らに本格的な学術調査をさせるところから始めている。 現在、中華民国政府は14の原住民族を承認しているが、それらは日本統治時代の研究を基礎としたものだ。

阿美(アミ)族
排灣(パイワン)族
泰雅(タイヤル)族
布農(ブヌン)族
卑南(プユマ)族
魯凱(ルカイ)族
鄒(ツォウ)族
賽夏(サイシャット)族
達悟(タオ)族…日治時代の名称は雅美(ヤミ)族。 蘭嶼(台湾島東南海上の島)に居住する。
邵(サオ)族…以前はツォウ族の支族と見做されていた。
噶瑪蘭(クバラン)族…平埔族(平地に住む原住民)。
太魯閣(タロコ)族…以前はタイヤル族の亜族と見做されていた。
撒奇萊雅(サキザヤ)族…以前はアミ族の支族と見做されていた。
賽德克(セデック)族…以前はタイヤル族の亜族と見做されていた。

アミ族からタオ族(ヤミ族)までの9族群は日本統治時代に体系化され、平埔番(熟番)は『平埔族』、高山番(生番)は『高山族』と総称した。 高山族の名称は1936年(昭和11年)に『高砂族』と改められるが、これは1923年(大正12年)の裕仁皇太子(…昭和天皇)訪台の折に『生蕃』、『蕃人』に代わる名として賜ったものとされている。 現在『原住民族』と見做されているのは、主に後者の高砂族に属する人々である。
もっとも、台湾で『原住民族』の名称が公的に使われるようになったのはごく最近…ここ十数年の話だ。 中国国民党は日本が去ったあと長らく彼らを『山胞(山地同胞)』と言い換えていた。 1980年代以降民主化が進むにつれ民族運動も活発化し、とくに90年代に入って原住民族の政治への影響力が無視出来ない状況となってきたことから、政府は1996年に原住民による行政機関『原住民族委員会』を設置。 翌年、彼らの求めに応じて『原住民族』を正式名称として憲法に明記した。
政府認定原住民族は当初日本統治時代の分類を基にする9族群だったが、その後の研究で民族の独自性が認められたサオ族(2001年)、クバラン族(2002年)、タロコ族(2004年)、サキザヤ族(2007年)、セデック族(2008年)が新たに加えられ、現在は14族群となっている。 そのほか承認待ち、未承認の民族も多数存在し、台南市などは独自に西拉雅(シラヤ)族を市定原住民に認定している。

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台湾では原住民族研究の基礎を築いたパイオニアとして、伊能嘉矩(いのうかのり)、鳥居龍蔵、森丑之助らが著名だが、中でも伊能嘉矩は最大の功績者としてとりわけ評価が高い。

伊能嘉矩(1867年-1925年)は岩手県遠野市の出身。 岩手師範学校退学後、新聞編集勤務などを経て人類学者・坪井正五郎、鳥居龍蔵と懇意になったのをキッカケに、本格的に人類学を学び始めた。 つまり伊能は元からの学者というわけではなかった。
初代台湾総督・樺山資紀が全島平定を宣言した1895年(明治28年)11月、伊能は28歳のときに陸軍省の雇われ職員として来台する。 1897年(明治30年)5月、総督府民政部から原住民教育施設準備の命を受け、半年間をかけて全島を一周。 当時は土匪による日本人襲撃が頻繁に発生していた時期であり、また山岳部への進入も困難だったことから必ずしも十分とは言えなかったが、各原住民族の地理的分布、身体的特徴、風俗や慣習、言語、思想、歴史などをじつに細やかに調査し、翌年それを基に台湾原住民族を『4群8族21部』に分類した。 これら研究の成果は1900年(明治33年)刊行の『台湾蕃人事情』(粟野伝之丞との共著)にまとめられている。
伊能は1906年(明治39年)に帰国するまでの10年間を台湾の歴史や原住民族の調査研究に費やし、いくつもの貴重な論文を残した。 前述のとおり元々が人類学・言語学のスペシャリストではないため分析の誤りも多数指摘されているが、それで色褪せるというものでもない。

帰国後、伊能は自身の台湾研究をまとめながら郷里遠野の歴史、民俗学の研究にも取り組み、その先駆的存在となった。 しかし1925年(大正14年)9月、台湾滞在中に感染したマラリアが突然再発し急逝。 未完だった台湾研究の集大成は彼の弟子・板澤武雄や交流のあった柳田國男らの手によって仕上げられ、3年後の1928年(昭和3年)に『台湾文化志』として出版された。
『台湾文化志』は、『台湾蕃人事情』や1904年(明治37年)の著作『台湾蕃政志』とともに現在も研究者たちのバイブルとなっている。

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伊能嘉矩と原住民の少女とのエピソードが残されている。
1896年(明治29年)、伊能は漢人宣教師・陳存心宅でタイヤル族の少女・アイと出会った。 年は16歳。 8年前、清朝の台湾巡撫・劉銘伝が軍を率いて平埔番討伐を行なった際、帰順した部族に人質として差し出させた少女だ。 当時アイは8歳。 基那吉キムナジイ社の頭目の娘だった。 12歳のとき、奴隷となっていた彼女の境遇を不憫に思った陳存心に養女として引き取られ、以来大切に育てられた。 礼儀正しく、容姿端麗。 中国語はもちろん、原住民の言葉もしっかりと記憶している賢い少女だった。 伊能とアイの交流は1年余に渡って続き、タイヤル語や原住民の習俗を彼女から学んだ。 そしてより良い教育を彼女に受けさせるため、私学校『稻江義塾』を台北に開いた教育者・兼松磯熊にアイを預けた。
1897年(明治30年)3月14日、兼松宅を訪ねた伊能は短期間のうちに日本語でスラスラと時候の挨拶が出来るようになったアイに感激し、数ヵ月後の彼女の様子を思い浮かべ期待を大きくした。 しかし、それがアイと交わした最後の言葉となってしまう。
アイは翌3月15日、突然の熱病に罹り、4日後の19日に急逝した。 その事実を兼松からの手紙で知った伊能のショックは大変なもので、才能と可能性がありながら若くして死んだ彼女を想い嘆き、彼女を奴隷の身から救い手塩にかけて育ててきた陳氏を想い泣いたという。 同年、伊能は痛恨の気持ちをしたためた追悼文を『東京人類学会雑誌』に寄せている。

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反日民族が語るフィクションを鵜呑みにするような人々は、日本人がいきなり悪魔の如く蹂躙していったとでも思いたいのかもしれない。 しかし実際は違う。 最初に学校を建てたことからもわかる。 日本人は、理解し合うことから始めたかったのだ…と。

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