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2013年4月12日 (金曜日)

【日治時期を知る (13)】台湾原住民と理蕃事業①

日治時期(1895年-1945年)、台湾総督府は原住民(蕃人)に対しても撫育、授産、取締ほか様々な政策を実施し、同化を進めていった。 これを『理蕃』と言う。

『原住民』という表現に抵抗のある人がいるかもしれないので予め断わっておくと、これは台湾で公的に使用されている名称です。 差別的な意味合いが含まれるとして日本では『先住民』と言い換えたりしますが、中国語では『以前住んでいたが今は存在しない民族』を意味するため、現実にそこで生活をしている彼らの実状とは異なってしまいます。 このブログ中では一貫して『原住民』、あるいは『原住民族』を使用しています。

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まず、台湾原住民のルーツについて。
台湾島は約1万8千年前に海面上昇によって大陸から分離し、1万年前にほぼ現在の形となった。 人類は既に5万年前から活動しており、台東縣長浜郷ほか台湾西部でも旧石器時代末期の遺跡が見つかっている。 新石器文化の登場は7千年ほど前で、末期には狩猟遊耕型生活から農耕を主とする定住型に移行。 約2千年前から徐々に金属器時代へと入り、一部は大陸東南沿海や東南アジアの金属器文化と相互交流を行なって多様性を増していった。
民族的にはこれまでオーストロネシア語(マレー・ポリネシア語)系に属するとの説が有力だったが、言語伝搬分析やDNA研究が進んだ結果、最近ではむしろ台湾こそがマレー・ポリネシア人の起源ではないかとする説が出されて注目を集めている。 つまり、台湾から東南アジア、ポリネシアを経由してニュージーランド、ハワイなど太平洋諸島に拡散していったというわけだ。

大陸の漢人が本格的に移住し始めたのは約400年前。 明朝時代の書物『東番記』(1603年)では原住民のことを『東番』(…東方の未開民族の意)と著している。 18世紀、清朝統治時代になると、服従した原住民を『熟番』(…平地に多く居住)、服従していない原住民を『生番』(…山地に多く居住)、その後清朝が積極統治を始める19世紀末になって漢民族化した原住民(…熟番)を『平埔番』、山岳地域で伝統的な生活を営む原住民(…生番)を『高山番』と呼ぶようになった。 日本統治後はそれぞれ『平埔族』、『高山族』と呼称している。 これはあくまで居住地による概念的な分類で、民族を表しているものではない。

中華民国政府認定14民族…
阿美(アミ)族、排湾(パイワン)族、泰雅(タイヤル)族、布農(ブヌン)族、卑南(プユマ)族、魯凱(ルカイ)族、鄒(ツォウ)族、賽夏(サイシャット)族、達悟(タオ)族または雅美(ヤミ)族、邵(サオ)族、噶瑪蘭(クバラン)族、太魯閣(タロコ)族、撒奇莱雅(サキザヤ)族、賽德克(セデック)族。

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1981年出版の『台湾統治史 霧社事件に至る抗日の全貌』(喜安幸夫著)では、理蕃事業を5つの時期に分けている。
まず、武装土匪による抗日が一応の沈静化を見せた1902年(明治35年)までを第1期。 原住民の抵抗が最も激しかった1909年(明治42年)までを第2期。 全原住民の武装解除・帰順を目的に軍・警察1万人以上を投入し、多数の死者を出した1914年(大正3年)までを第3期。 原住民による最大規模の武装抗日暴動『霧社事件』が発生した1930年(昭和5年)までを第4期。 そして、霧社事件の対応を反省し原住民に理解を示したことで対日感情が好転する1945年(昭和20年)…終戦までの第5期である。

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日本による台湾統治は1895年(明治28年)に始まるが、第1期、1902年(明治35年)までの7年間は漢人による武装抗日の鎮圧に手一杯で、原住民政策はほとんど実施出来ていない。 清治時代からあった『撫墾局』、『土牛界線』を踏襲、発展させた程度だろうか。

撫墾局は、清朝が原住民を管理するため山地近隣の8ヶ所に置いていた行政機関。 1896年(明治29年)、台湾総督府は名称を『撫墾署』と改め、設置場所を11ヶ所に増やして原住民管理を行なった。 撫墾署は1898年(明治31年)に廃止され、その後は各地の弁務署(…県・庁の出先機関)に機能を移している。
土牛界線というのは清治時代に漢人移民が築いた原住民地区との境界線、防衛柵のこと。 清朝が統治したと言ってもその支配力は中央山岳部にまでは及んでおらず、漢人が原住民のテリトリーに入って殺害されるトラブルが絶えなかった。 そこで双方の出入を禁止し、衝突を避けるために設置したのが土牛界線だ。 しかし実際のところは漢人のテリトリー拡大、原住民地区の侵食に利用されていたらしい。 日本は統治開始後、防衛ライン周辺に隘勇(あいゆう)と呼ばれる警備員を置き、さらに隘勇線(土牛界線)を延長して原住民の囲い込みを強化した。 その長さは1909年(明治42年)の時点で470kmにも達していたという。

目立った政策の無い第1期だが、その後の統治に大きな影響を与えたものもいくつかある。 たとえば初代総督・樺山資紀が全島平定を宣言する直前、1895年(明治28年)10月31日に公布した無主地(…持ち主がいない土地、個人が所有を証明出来なかった場合も含む)を官有地と定め、また樟脳製造を許可制とする法律『官有林野及樟脳製造業取締規則』。
クスノキから抽出される樟脳はセルロイドの可塑剤、無煙火薬の材料のほか、強心剤、防虫剤にも使われる利用価値の高い貴重な物質である。 当時台湾は世界シェアの7割を占める樟脳の一大生産地で、その生産に従事していたのが主に台湾客家人や原住民だった。 日本は輸出品として莫大な利益を上げる樟脳生産の主導権を彼らから奪おうと図ったのだ。 結果、台湾客家人らの蜂起を呼び、日本軍は長年に渡って彼らの激しい抵抗に苦しめられることになる。 樟脳専売制度が実施された1899年(明治32年)には、反発した客家人と原住民族・サイシャット族、タイヤル族連合による南庄支庁包囲襲撃事件が発生している。

この一連の法律は原住民にも多大な影響を与えている。 原住民たちは部族それぞれに祖先から受け継いだ独自のテリトリーを持っているが、所有権を証明するのは困難だった。 総督府は隘勇線を押し拡げ、彼らの活動エリアである森や狩猟場を一方的に奪っていった。 彼らにとって自分たちのテリトリーを侵す者は敵でしかなく、各地で日本人との衝突が相次いだ。 1897年(明治30年)1月、深堀安一郎大尉率いる測量隊15名が霧社に入り、全員が同地の原住民タイヤル族(…現セデック族)に殺害された事件はとくに有名だ。 以降日本側は霧社地区への隘勇線延長、隘勇増員を徹底的に行ない、1901年(明治34年)、警察隊が包囲討伐を開始する。 映画『賽德克・巴萊(セデック・バレ)』によって日本でも広く知られるようになった霧社事件は、その29年後に起こった出来事である。

『霧社』、『セデック族』、『モーナ・ルダオ』が抗日や民族アイデンティティの象徴として一律に語られている昨今だが、じつはいずれも正確ではない。
そもそもセデック族はタクダヤ、トゥダ、トルク(タロコ)の3つのグループから成り、その中には対立も存在していた。 暴動を主導したのはタクダヤというグループだが、そのタクダヤ自体も複数のグループで構成されている。 反乱を率いたモーナ・ルダオはマヘボ社の頭目で、パーラン社、カッツク社、タカナン社などは反乱には参加せず、逆に日本側に協力した社もあった。 また、事件後生き残った反乱側はすべて強制移住させられたため、現在霧社に住んでいる多くは日本人に協力をしたグループや、タクダヤと対立していたトゥダの人々だ。 つまり『モーナ・ルダオ』はセデックを代表する名ではなく、『セデック』は抗日や民族アイデンティティを象徴するものでもない。 『霧社』という一地方で起きた、極めて局地的な事象だったのである。

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こうして見ると日本人と原住民の関係は悪いものばかりに思えてしまうが、中には互いに理解をし合い、良い関係を築いた人々もいた。 恒春国語伝習所の所長・相良長綱とパイワン族テロソ社の頭目・潘文杰(Jagarushi Guri Bunkiet)の邂逅もその一つ。 原住民を対象とした国語伝習所第1号『豬勞束(テロソ)分教場』は、二人の交流があってこそ生まれたものだ。
相良長綱は台東庁長、恒春庁長、恒春撫墾署長代理を兼務する身でありながら、足繁く担当地区内を歩いては伝習所就学を住民に説いて回った。 当時台湾南部・恒春も他の地方と同様治安は良くなかったが、相良はたった一人で、しかも丸腰で原住民部落を訪れたそうだ。 頭目の文杰はこれにいたく感激したらしく、相良の話に耳を傾け、教育の必要性に理解を示した。 総督府学務部長・伊沢修二は当初原住民の教育までは考えていなかったが、相良と潘文杰の交流を聞いて積極策へと転換したようだ。

潘文杰は18の社を従える大頭目で、日本統治以前の1867年に発生したローバー号事件では事後交渉に携わり、また1874年の牡丹社事件の際には恒春各社と日本軍の間を奔走、早期停戦に尽力したという傑物である。 分教場の設置決定後は学校用地の選定から校舎の建設、生徒の勧誘まで一切を文杰が取り仕切り、1896年(明治29年)9月、漢人向けの恒春国語伝習所とほぼ同時に開校させた。 これをモデルに台東の各部落にも次々と分教場が増設され、豬勞束分教場があった屏東県満洲郷は現在、原住民教育発祥の地として知られている。

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