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2013年4月 6日 (土曜日)

【日治時期を知る (12)】保甲制度と匪徒刑罰令

台湾が日本の統治下となった最初の3年間、この間に起こった混乱の要因は間違いなく初手を誤った日本側にある。 住民の激しい抵抗に驚き強硬策を取ってしまったことで、台湾人の中に払拭しがたい日本人への恐怖と不信感、憎しみを植え付けてしまった。 総督は有効な策を打ち出せず次々と交代。 1896年(明治29年)10月に就任した3人目・乃木希典も人気こそ高いものの、やはり大した成果を残せないまま台湾を去っている。

変化が現れたのは1898年(明治31年)2月、乃木に代わって児玉源太郎が第4代総督に就いて以降だ。 翌3月には後藤新平が民政長官に任命され、ムチだけでなくアメも採り入れた硬軟両面政策へと転換していった。
乃木の時代に施行された三段警備制を廃止、清治時代からあった『保甲制度』を土匪(…土着の匪賊)対策など治安維持を主目的としたものに整備し直した。 保甲というのは日本で言うところの『五人組』のような連帯責任を伴う隣保制度で、甲は約10戸、保は約10甲で編成され、それぞれにリーダーとなる甲長と保正を任命した。 また同時に、警察に協力して抗日分子の鎮圧、盗賊や自然災害の警戒防御にあたる『壮丁団』も各保甲に創設している。 壮丁団は17歳から50歳までの優良な保甲住民男子によって構成され、治安維持のほか、やがては徴税や戸籍管理、伝染病予防、インフラ整備など様々な一般行政業務を代行するようになった。

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後藤新平は台湾の習俗に配慮した政策を進める一方で、1898年11月、匪徒を厳しく処罰する『匪徒刑罰令』も発布している。
この法令は一般人を対象としたものではない。 あくまで匪徒による暴力、脅迫を伴う集団行為(…謀議を含む)に対するものだ。 これに触れた者は目的の如何を問わず、首謀者、責任者は死刑に、その他関わった者は重懲役刑。 また首謀者でなくとも、抵抗・妨害・放火・破壊・強姦・略奪等を働いた場合は死刑に処するという厳しいものだった。 その匪徒刑罰令の発布直後に行なわれた南部一帯の討伐が、いわゆる『阿公店大虐殺事件』である。

阿公店は台湾南部、現在の高雄市岡山區の別称である。 当時総督府の公権力は南まで充分に行き渡っておらず、治安は最悪、秩序は崩壊状態、社会の混乱と不安は増す一方だった。 また、この辺りは武装土匪の首領・林少貓らが本拠とする地域で、数十人から数百人規模の抗日ゲリラによる日本人施設襲撃も相次いでいた。 そこで新任民政長官・後藤新平は秩序回復を目的に1898年11月25日から12月27日までの1ヶ月間、2度に渡って、嘉義から屏東に至る台湾南部に於いて抗日土匪を一掃する絨毯的な大規模捜索及び掃討作戦を展開した。
1938年(昭和13年)に出版された『台湾総督府警察沿革誌Ⅱ』(鷲巣敦哉編纂)によると、この作戦で殺害された土匪の数は926名。 しかし総督府台南縣知事が行なった事後調査では死者2053名との数字が出ていて、罪無き一般農民も多数殺害されていたようだ。 12月26日(農暦11月14日)に三德村で起こった『六班長清庄事件』と呼ばれる事例では、15歳以上の男子100名(…隣村の客1名も含む)が短い尋問のみで殺害されたとある。 事件から110年目となる2008年7月、三德村は三山國王廟側に『三德村一一・一四紀念公園』を建設。 2012年1月、田んぼの真ん中から発掘回収した遺骨を公園内紀念碑後ろの棺に納める移霊式を行なった。

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この事件に対する林少貓の報復は凄まじく、呼応した閩南人、客家人、原住民ら数千人が蜂起。 潮州の弁務署を襲い日本人官吏全員を惨殺した。 遺体は百姓らが皮を剥いでバラバラにしたうえ、路上に晒したとの記述もある。
神出鬼没の林少貓に手を焼いた日本側は武力鎮圧だけでなく、寛大な処遇と引き換えに投降を促す招降政策も用いて各地の有力土匪を次々と帰順させ、外堀を埋めるように抗日の勢いを削いでいった。 1902年(明治35年)5月30日、最後まで投降を拒み抵抗を続けた林少貓は後壁林で日本軍に包囲され死亡。 武装抗日運動はこの林少貓の死をもって一旦収束することとなる。
匪徒刑罰令発布から1902年までの4年間に処刑された土匪の数は3100名余。 これはあくまで裁判に掛けられた者のみで、討伐隊に土匪と見做され殺害された者を含めると、その数は1万2000名近くに上るという。

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たしかに日本は植民統治の初期、武装抗日の鎮圧と治安維持のために強力な警察権力をもって台湾人を管理した。 しかしながら、なぜそうなってしまったのかも…なんとなく理解は出来る気がする。
経緯はどうあれ日本は清朝から台湾を割譲された。 台湾は日本領となったのだ。 上陸する権利が日本にはあった。 にも関わらず利権を手放したくない大陸由来の貴族らは民衆を独立へと煽動し、旗色が悪くなると今度は民衆を見捨てて大陸へと逃亡した。 あとに残ったのは法も秩序も解さない匪賊が跋扈する混沌とした台湾である。 一般民衆から金品を奪い、あるときは紛れ、ゲリラとなって日本人を襲った。 日本軍の行き過ぎた殲滅行為を是とすることは断じて出来ないが、ゲリラを抗日の英雄と讃えるような台湾の見方が正しいとも思わない。 やったのは互いに殺し合いだ。 どちらか一方のみの過ちでこうなったのではないということを、台湾人も認識する必要がある。 そして日本人は、この超法規的強権を発動せざるを得なくなった原因が、異民族の統治についてあまりにも無知で性急過ぎた自分たちにこそあったのだということをしっかりと理解したうえで、台湾から寄せられる好意を受けるべきだろう。

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