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2013年3月19日 (火曜日)

【日治時期を知る (7)】台湾民主国の成立、乙未戦争、そして滅亡

1894年(明治27年)、日清戦争(…中国語では甲午戦争)が勃発する。 ここに至る経緯については台湾史に直接関係がないため、『認識台湾(台湾を知る)』ではまったく触れていない。 戦争が終結し、馬関条約(下関条約)が締結された1895年から始まる。
ちなみに日清戦争への大まかな流れは、江華島事件(1875年)、日朝修好条規(1876年)、甲申政変(1884年)、天津条約(1885年)、甲午農民戦争(1894年)、日清戦争(1894年-1895年)となる。

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朝鮮の内乱『甲午農民戦争』での睨み合いから始まった『甲午戦争(日清戦争)』は清の敗北で終わり、1895年(明治28年)4月、日本と清は山口県赤間関市(…赤馬関とも。通称馬関。現在の下関市)に於いて『馬関条約(下関条約)』を締結。 台湾と澎湖が日本に割譲された。 台湾の官民は当然これに不服で、イギリス、フランスなどの列強に割譲阻止の助力を乞うたがいずれも不調に終わり、さらには伊藤博文に求めた割譲見直しの再協議も拒否され、ついに台湾は自主独立の道を選ぶこととなる。

5月23日、台湾巡撫(…清朝から派遣された台湾省長官)・唐景崧と一部貴族らは、民衆に独立を呼び掛けるとともに『台湾民主国独立宣言』を発布。 5月25日、独立式典を挙行して『台湾民主国』を成立させた。 初代総統には唐景崧が就任。 劉永福が大将軍として台南に、防衛には詩人・丘逢甲が日清戦争開戦時に結成した義勇軍があたった。
すでにこの動きを察知していた日本側は、初代台湾総督・樺山資紀の艦隊と近衛師団を直ちに制圧へと向かわせる。
5月29日、近衛師団が台湾北部・澳底に上陸。 戦闘開始から間もなく民主国守備軍は総崩れとなり、6月3日、基隆が陥落。 総統・唐景崧はその翌日、老婆に化けて丘逢甲とともに大陸へと逃亡した(…公金を持って)。
6月中旬、台北は無血開城し、日本が台湾の統治開始を宣布。 これまでの戦闘により死亡した兵士の数は民主国側が約200名、日本側は7名と記録されている。

6月下旬、台南を守備する大将軍・劉永福が民主国軍を指揮して抗日が継続されるが、それからのほうが苛烈だった。
統治を甘く考えていた台湾総督・樺山資紀は、各地の民衆で組織された『義軍』、残留する軍人たちを加えて編成された『新楚軍』、劉永福の『黒旗軍』らの激しい抵抗と地の利を活かしたゲリラ戦術に苦戦を強いられ、戦闘は長期化。 大軍を投入したなりふり構わぬ掃討、鎮圧を行なうようになっていく。 やがて民主国軍は戦力差からジリジリと後退。 10月下旬、劉永福がアモイに逃亡したことで完全に瓦解し、台湾民主国は成立から5ヶ月足らずで滅亡した。
この一連の戦闘による台湾軍民の死亡者数は1万4000名。 一方、兵員7万5000名を投入した日本側も5000名近い死者を出す結果となっているが、そのほとんどはマラリアやコレラによる病死で、10月28日には近衛師団長・能久親王も台南で陣没している(…軍夫の死亡者数は7000名との記述もある)。
この悲惨な戦いは1895年の干支にちなんで『乙未戦争』と呼ばれている(…甲午戦争も同じ理由から)。

1895年(明治28年)11月、樺山総督は東京の大本営に台湾平定を報告したが、武装抗日はその後も20年以上に渡って続くこととなる。

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