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2013年3月18日 (月曜日)

【日治時期を知る (6)】清領時代後期、牡丹社事件~台湾省設置まで

台湾出兵に対しては政府内部でも意見が一致せず、また国際的な支持も得られていなかったが、結局勢いに押されるまま1874年(明治7年)5月中旬に陸軍中将・西郷従道らの率いる征討軍約3600名が台湾に向けて出発する。
5月下旬、日本軍150名が牡丹社への攻撃を開始。 原住民たちは最初激しく抵抗したが、やがて敗走に転じ、酋長父子は死亡。 その後も僅かな抵抗はあったものの、7月までに牡丹社を含む3つの部落が制圧された。

9月に入り、清国が6500名を派兵して人的戦力差は逆転したが、清国側は日本との開戦を望まず、一方の日本側もこのときマラリアなどの風土病で悲惨な状況にあったため(…原住民との戦闘による死者数は排湾族側が30名、日本軍側は10数名だったが、病死者の数は最終的に550名を上回った)、両国はイギリスの仲介のもとで和議を進めることとなる。
日本政府は大久保利通とルジャンドルを北京に派遣。 交渉は難航したが、最終的に日本軍の年内撤退を条件に、清国側が日本の出兵を『義挙』によるものと認め、日本側に賠償金(…被害に遭った琉球民への見舞金を含む)を支払うことで合意。 これによって琉球は日本の属地であると、間接的ながらも清国が認めた形となってしまった。 日本側の受け取った賠償額は戦費の10分の1にも満たなかったそうだが、台湾史教科書『認識台湾(台湾を知る)』では、日本は『兇手懲罰』を口実に侵攻し大きな利益を得た…としている。
日本軍が初めて行なったこの海外派兵は『牡丹社事件』、あるいは『征台の役』、『台湾事件』と呼ばれている。

消極的だった清朝の治台政策は牡丹社事件をきっかけに、海防力の強化、統治不良の改善が図られたほか、漢人の渡台制限、原住民地区への侵入禁止や原住民との通婚禁止の法令が撤廃されるなど、発展を促す積極策へと転換していった。 また、1884年に発生した清仏戦争に於ける攻防戦でさらに台湾を重視するようになった清朝は、1885年10月、正式に台湾を省に改めることを宣布。 行政改革及び原住民の管理、財政の立て直し、遅れていた交通インフラの整備、教育施設の建設と人材育成が行なわれ、台湾は当時最も近代化が進んだ省となっている。

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なお、原住民に殺害された宮古島島民54名の遺体は、生存者救出に尽力した漢人・鄧天保、楊友旺、林阿九らによって回収、埋葬されており、西郷らは撤退前にこの墓を改修し碑を建立した。 日本の台湾統治が始まった1895年には林阿九ら現地関係者も参加して墓前祭が行なわれている。 宮古島と台湾の民間交流は現在も盛んである。

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