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2013年3月17日 (日曜日)

【日治時期を知る (5)】日本、台湾出兵へ

1997年に初めて刊行された台湾史の教科書『認識台湾(台湾を知る)』では、『日本は早くも16世紀末以来、南の琉球と台湾を侵す野心を持っていた』ことになっている。 詳細には触れずこれだけしか書かれていないが、『16世紀末』が指しているのは秀吉の大陸進出構想、あるいは朝鮮出兵あたりか。 中国大陸と宗属関係にあった琉球は17世紀初めに薩摩藩の侵攻を受けて日本の支配下に入っているので、これはその通りだろう。 ただ、日本が台湾進出の意志を明確にしたのは、やはり『宮古島島民遭難事件』以降だと思う。 清がきちんと台湾を管理し西洋列強から守れる状況であったならば、当時朝鮮半島のほうを重要視していた日本が積極的に手を伸ばす必要性はなかった。 曖昧な表現を使って、日本が侵略国家であることを印象付けたいとする中華民国側の意図が見える一文だ。

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1871年(明治4年)に台湾で発生した琉球(宮古島)島民54名惨殺の知らせは、生存者12名が帰国した翌1872年(明治5年)に明治政府の元に届いた。 琉球を管轄する鹿児島県(薩摩)や血気盛んな長州、土佐の元藩士たちからは台湾を討つべしとの強硬論が出されたが、まだ日本国内の情勢が安定しておらず、しかも日本と清はこの事件が起こるほんのひと月前に日清修好条規をまとめたばかり。 清との交流が深い琉球からも穏便に済ませてほしいとの嘆願があり、政府としても慎重な対応を模索していた。
しかし、1867年に起こった同様の事件『ローバー号事件』の解決交渉で台湾当局に不信感を持っていた駐アモイ米総領事チャールズ・ルジャンドル(Charles W. Le Gendre)が武力解決を日本側に提唱し、1873年(明治6年)、政府は外務大臣・副島種臣を特命全権公使として北京に派遣。 日清修好条規の批准書を交換するとともに、事件についても厳重に抗議を行なった。 ところが清国から返ってきた答えは、『生番係我化外之民,問罪與否,聽憑貴國辦理(原住民は我々の管轄外だ、罪は問えない、貴国で処理しろ)』というもので、これが台湾征伐強硬派に出兵の大義を与える結果となってしまうのである。

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