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2011年9月16日 (金曜日)

楊宗緯、時代を越える名盤の誕生。

楊宗緯(アスカ・ヤン)のニューアルバム『原色』が、8月26日にリリースされました。 もちろんウチにもすでにあって、愛聴盤の仲間入りをしています。 先日のRTI台湾国際放送によると、この『原色』は発売直後の第1週、台湾でのC-POP中国語アルバム売り上げシェアの41.77%を占めたそうです。 また首波主打(第1弾シングル)となった『懷珠』は、現在KISS RADIOのC-POPシングルチャート(第36週)で初登場第1位を飾っています。

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ヒットメーカー・李宗盛(ジョナサン・リー)のプロデュースによるアスカのニューアルバム『原色』は、そのタイトルとジャケット写真が表現しているとおり、とてもシンプルな『色』で統一されています。 収められている11曲(ボーナストラック1曲含む)のほとんどはじっくりと聴かせるバラード、R&Bです。 C-POPに詳しい業界人らしいある方は、『暗さばかりが目立って疲れる。 残念』と個人ブログで評されていますが、たとえば遠目では淡くシンプルに見える日本料理の数々も、実際にひとつひとつ近くで味わってみれば、どれも彩り豊かで鮮烈なように…、たとえばモノクロの写真ばかりを集めたギャラリーを訪れたときに感じた、それらの作品個々が発する静かだけど力強いエネルギー、溢れるメッセージ…、そういったものと同質の感動を僕はこのアルバムから受けました。 ジョナサンとアスカが意図したのもおそらく、そこです。
10曲それぞれに意味がある。 中国語もわからないクセにと言われそうですが、それでも伝わるものがあるのだから、やっぱりスゴイのでしょう?

アダルト・コンテンポラリーの名盤が誕生したと思っています。

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日本に伝わってこなかった、彼のこの3年間の様子もだいぶわかってきました。

07年、アスカは28歳のとき、新人オーディション番組『超級星光大道』第1シーズンに年齢を詐称して出場(参加資格は13~25歳迄)し、発覚後自ら舞台を降りましたが、それでも人気はまったく衰えませんでした。 当然レーベル各社からの引く手も数多。 でもアスカは偽って出場したにもかかわらず、自分を高く評価してくれた番組主催レーベルである華研唱片(HIM)にとくに深い恩義を感じており、同社との契約を望んでいました。
ところがそこへ、この『カネの生る木』に目をつけた台湾では有名なウラの組織の大物や、それと組んだ悪徳芸能プロダクションの社長らから、アスカを譲渡せよとの強引な横槍が入ったのです。 HIMも相手が相手だけに断腸の思いでアスカを手放さざるを得なくなり、甘言で篭絡されたアスカの家族は、彼の意に沿わない契約書にサインをしてしまいます。 これが元で後にアスカは大きな契約争議に巻き込まれることになるのでした…(なんだかもう、ドラマを地でイッてる…)。

07年12月、その組織の大物は露見した数々の犯罪容疑で警察に逮捕され、契約騒ぎは一旦沈静化します。 それで翌年1月、華納唱片(ワーナー)から1stアルバム『鴿子』をリリース出来たのですが、このアルバムが大ヒットしたことで契約権を持つ例の悪徳社長との間でまたしても騒動が紛糾。 その後1年に渡って芸能活動はほぼ凍結状態となり、アスカは志を失い、消沈し、ゴシップ誌は彼が自殺するのでは…と書き立てるほどだったといいます。 現在『维基百科』に詳しい経緯が追記されていますが、とにかく次から次へと『とばっちり』を受け続け、かなり気の毒な状況に追い込まれてしまったようです…。

一時は歌をやめて田舎で農業をすることも考えたそうですが、そんな彼を支えたのは、やはりたくさんのファンの声や、後ろ盾となってくれた人々の存在でした。 その励ましに奮起し、あきらめず歌うことへの初志を貫くことが出来たのです。
09年2月、アスカは弁護士を立てて契約訴訟を起こし、31回目の誕生日を迎えるちょうどひと月前、芸能活動凍結は事実上無効となりました。 そして11月4日、悪徳芸能プロとの契約も満了、翌2010年1月22日にすべての訴訟は結審し、晴れてアスカは本当の意味での自由の身となったのです。

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林宥嘉(ヨガ・リン)、蕭敬騰(ジャム・シャオ)らの同期から完全に遅れをとってしまったアスカに手を差し伸べたのは、台湾芸能界の大物…といってもこちらはちゃんとした方、張惠妹(アーメイ)やビビアン・スーら多数の芸能人の後見を務めるゴッドマザー・葛福鴻(グー・フーホン)でした。 2010年6月、彼女の仲介で、C-POP界のゴッドファーザー・李宗盛(ジョナサン・リー)プロデュースによる、アスカのニューアルバム製作が決定したのです。
アスカは2010年秋から翌年の春にかけて、北京の798芸術特区にあるジョナサンのスタジオを3回に渡って訪れました。 その10坪ほどのスタジオで、アスカは数多くの忘れ難い経験をするのです。 ただジョナサンから10の歌を与えられただけではなく、その後の、自身の音楽人としての足下を、揺るぎないものにするための…。

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2010年秋、恐る恐る訪ねたジョナザンとの最初の出会いは、散々なものでした。 歌のテクニックには自信があったアスカですが、ジョナサンは表情ひとつ変えず、『もう一度』、と冷徹に繰り返すだけだったといいます。 アスカは何度も何度も歌い直しを求められ、そして、『キミは本当にそんなふうに歌いたいのかね?』との問い掛けに絶句したそうです。 いったいどこがいけなかったのか、ジョナサンは自分に何を要求していたのか…。 自信を失ったアスカは、それが理解出来ないまま落胆して台湾へと戻りました。

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再び北京を訪れたのは2011年1月。 今度は簡単に終わるわけにはいかない。 どうジョナサンと向き合えばよいか、どのように歌を解釈するのか、なぜ彼はこの歌を選んだのか…アスカは黙々と考え、飲み込み、消化していきました。 そしてついに、ジョナサンが笑ったのだそうです、あいかわらず言葉少なではありましたが…。 彼の考え方と同じではないかもしれない、でもアスカは自分なりの歩みで、第一歩を踏み出したのです。 ジョナサンはアスカとのコンタクトを開始します。

『すべての感情を込めてみろ』
『どんな心境だ』
『キミは知っているだろう』

矢継ぎ早に送られるメッセージの意図を、アスカは慎重に探ります。 ジョナサンはズリ落ちそうに鼻に引っかかっているメガネの奥から、ときおり厳しい視線を飛ばしますが、もうアスカに恐れも迷いもありませんでした。 歌をひとつ受け取る毎に、ジョナサンへの敬愛は深くなっていきました。 すべての音に情感を込める、少しずつ物語は流れ始める、魂の叫び…! アスカは理解しました。 揺らぐことのない『信条』を得たのです。

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春、三度目の北京、最終日…。 スタジオには親愛の情と切なさが充満していました。 これが最後の録音となります。 あと3曲録り終えればジョナサンとの別れなのです。 アスカはこの感謝と敬愛の気持ちをどう表現すればよいのかわかりませんでした。 そしてジョナサンは変わらず言葉少ないままでした。 ほぼ半年になります。 忘れ難いスタジオでの出来事、スタジオにある物、そしてスタジオにいるスタッフ皆を、家族のように思う気持ちで満ちていました。

録音が終わったあと、とくに歓送も抱擁もなかったそうです。 アスカはちょっとガッカリしましたが、皆は解っていました。 これは『別れ』ではないのです。 これですべて終わり…なんてことなどあり得ないのですから。

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葛福鴻からこの話を貰ったときジョナサンは、すでにアスカを賞賛していたそうです。 『百万製作人』と呼ばれるジョナサン・リーがアルバムのフル・プロデュースを引き受ける気になったのは、じつに16年ぶりのことでした。 それほどにアスカの才能を高く評価していたのです。 だからこそ敢えて、厳しい言葉を投げ掛けたのですね。
ジョナサンは言います。 アスカの歌声を通じて、女性たちに男心を知って欲しいと。 女性の歌を描かせたら並ぶ者なしと言われている、あのジョナサン・リーがですよ。

『これは本当に素晴らしい作品なんだ! これまでのアスカの努力、誠意、すべてが歌の中に存在するとわかるはずだ』…と、2011年の金曲獎・三冠受賞者、ジョナサン・リーは語っています。

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